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真澄にとうとう彼氏ができた。
今流行りの出会い系アプリ――最近はマッチングアプリって言うんだっけ、とにかくそこで出会った2つ年上の人から晴れてお付き合いの申し出があったらしい。
彼氏いない歴34年の歴史に終止符が打たれた衝撃は凄まじかった。0時過ぎにも関わらず、5人グループとは思えない勢いでスタンプやトークが流れていく。既読をつけている以上もちろん私も混ざる。細かく切ることで驚きを伝えるため、「うそ」「まじ」「え」と打ってから「おめでとう」にビックリマークを5個くらいつけて送った。
反応と祝福はしたのでホーム画面に戻り、画面を消す。興味が無いという事ではなく、むしろ真澄は前々からグループで恋愛相談をしていたので応援していた。ただ、マッチングアプリなんてロクな奴がいないんじゃないの、と心の奥底で思っていたところで先を越されてしまったのが恥ずかしかったのと、このままお祝いモードのグループに居座って、主役への尋問が終わった後の第二波に巻き込まれるのを避けたかった。
スマホが永遠に震えるので通知を切り、代わりにテレビの電源を入れる。寝る前に確認した時、通知は800を超えていた。
朝の電車でそれらに目を通していると案の定、これでいよいよリーチだね、といった具合でほんのりと私への言及があった。撤退して正解だったと息を吐く。
数年前、既婚者が2人になったあたりからグループ内には謎の団結力が生まれていた。
現役時代の、真っ黒に日焼けしながらトラックを駆けていた頃のそれとは違う団結力。ざらつくようにさえ感じているのは私だけなんだろうか。チクチクとした引っ掛かりは募り募って今や『なんだかついていけてない』になっていた。
引退時のプリクラを最後に更新が止まっている私に対し、ネイルの投稿、お出かけコーデ、鏡越しのジムでの一枚。男っ気が無かったどころか男の子のようだった反動で、引退後はみんな見違えるほど綺麗になった。そして私もその中のひとりとして褒められたことだってあったのに。ゆるく巻かれたツヤツヤの髪も、きめ細やかな白い肌も、私の元には降ってこなかった。
差を広げられた私がグループに、恋人ができたと打ち込んで送信することは容易い。けれど恋人ができたところで、ようやく全員が横並びになるだけなのである。そして、足並みが揃ったところで社交辞令から本格的に集まる流れになりかねない。実際に顔を合わせて、周回遅れの予感を現実にするのは怖かった。
「えー待って、坂下さん、それジマツですかぁ?」
まじまじと目元をのぞき込まれながらだったので、ジマツという未知の単語が自まつに変換され、自分のまつ毛を指していることが解った。総務の美果ちゃんの自まつはクジャクの求愛みたいに広がっているな、なんて考えながら空返事を返すと、長くて羨ましい、自分はまつエクが無かったら妖怪だ、といった内容が甘ったるく長ったらしくなって返ってきた。
要件を終えても会話は無駄に続き、美果ちゃんに勿体ないからまつパ(まつ毛パーマの事だと思う)だけでもやった方がいいと勧められた。じゃあやってみようかなという返事はこの生産性の無い話を切り上げるためであったけれど、そこにはほんのりと、これをやればもしかしたら、といった根拠も向かう先もはっきりとしない希望が含まれていた。
美果ちゃんは付箋を1枚要求し、そこに自分が行っているというまつ毛サロンの店名を書いて渡してきた。「内田の紹介って言ってもらえれば500円割引になるんでぇ」デスクに戻る背中で揺れる髪の残り香を嗅ぎながら私は、可愛くて優しくていい人だとなんとも幼稚な感想を、次いで、私はこれになろうとしているのかと絶望にも似た何かを感じた。
昼になると部長が数名の女性社員と共にこちらを訪ねてきて、うちの課の子を吸いつけるように集めて出て行った。訪ねてきた女性社員の中には美果ちゃんも含まれていて、さっきのまつ毛の件はそのお誘いの時のものだった。
予約困難な創作フレンチのコースランチ、テラス席。オーガニックな食材にこだわっていて見た目も華やからしいが、惹かれるものは一つも無かった、どころか部長と同席がマイナスでしかなかったので丁重にお断りをした。
がらんとしたオフィスでキリのよいところまで仕事を終え、辛味噌おにぎりを片手にメールの確認をしていると、きゃいきゃいとした声の集団が帰ってくる。
集団は群れたままでいるので不思議に思っていると、中心の人物がしわがれた大声で私を呼んだ。土産だ、土産、と不快な笑い声の元で、箱に並んだお菓子のようなものを囲んではしゃぐ女子たち。
これ、イヴォワールのカヌレですよぉ、と美果ちゃんが急に呪文を喋りかけてきた。ランチ行けなかった坂下さんにもーって、部長がぁ。
斜め上からニマニマと気持ちの悪い笑みを感じる。女子はこれが好きなんだってなと得意げに言うので、ありがとうございますの前に女子っぽく、うわあすごいと付け足して1つ手に取った。食え、という圧力も相まってかズシリと重い。
その見た目からも、食べるのは気乗りしなかった。焦げた失敗作にしか見えない、黒光りの物体を口に運ぶ。歯を当てるとプラスチックのように硬かったので恐る恐る力を加えると、樹皮を噛むようにミシミシと異音が鳴った。内側は妙に弾力があったのでブチリと嚙みちぎる。生焼けのようなぶにゅぶにゅした中身、頬を叩かれたような甘味。飲みこもうにもそれは噛んだだけ水気を含んで、何かの幼虫のように口内を蠢く。
何これ。絶賛の声と共に幸せそうな顔で味わう女子たち。それと同じ反応が来ると信じきっているオヤジの顔。手元では、噛んだ時に潰れた断面の細かな穴がおぞましく口を開く。
ふと、学生時代を思い出した。当時も流行りのスイーツというのはあって、部活終わりに汗だくでパティスリーに駆け込んで、最後の一個を全員で割り勘して買った。一口ぶんずつ食べて、こんなもんかよとみんなで非難して笑った帰り道。
オフィスに立つ34歳の私は今、女の子の集団の中で、その女の子たちがもてはやすお菓子を食べている。大口を開けて汚く笑ったあの日の仲間はみんな、誰かの奥さんとして、恋人として生き始めてしまった。
一緒にゴールしようね、を裏切られた訳じゃない。むしろ私が勝手に置いて行かれただけだ。だけど、まつパのひとつもしたことが無い私にその背中はあまりにも遠かった。
未だに飲みこめないそれを含みながら、えずかないようデスクに置いてきた食べかけの辛味噌おにぎりを必死に脳内で手繰り寄せる。そして私は目の前の女の子とおんなじ表情で、おんなじ声の高さで、この食品へ賛辞の言葉を並べた。
もたつく口で発した台詞は、皮肉にも美果ちゃんの甘ったるい喋り方に似ていた。
カヌレっての美味しがらなきゃいけなくて しがみついてる女子最後尾
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